5/18/1988
独立記念日
34年前の今日、パークアベニューの井上弁護士を訪ね、会社設立登記を手伝っていただきました。
212 East 47th Street, New York, NY、21階にある自宅アパートのリビングルームを本社として、名刺を作成し、Katsu Kawasaki, Inc.と言う会社名でスタートをさせました。
経緯
今思えば、まともな勝算もなければ、心配・不安もほとんどないという、随分身軽、身勝手な出発でした。
しかし、New Yorkで企業し、お世話になった繊維メーカーさんに米国のアパレル関連会社から、自ら、直接、少しでも多くの注文を取ってあげたいという気持ちは強くあり、根拠のない自信はありました。
当時は、アパレルのデザイナー・マーチャンダイザー、いわゆる発注決定権を持たれた方々から、日本の繊維メーカーさんの手元に引合として届くのに、米国のコンバーターと呼ばれる問屋、米国の日系商社、日本の商社本社、産地のコンバーター、自社設備を持たない産元と呼ばれる企業、そしてその管理の下、紡績・染色、製織、整理加工・業社に実際の製造を委託すると言う、織物が出来るまでに、間に5段階のレイヤーが存在しておりました。
その仕組みを前職の尾州の産元メーカーに勤めて一年目に理解し、そして疑問を持つようになったことが、New Yorkでの起業の真因、つまり、その5段階のレイヤーをひとまとめにした機能を持つことで、それまで産み出すことのできなかったような希少性の高いテキスタイル、そして仕組みができるのではないかと考えるようになりました。
1980年代には、三菱商事、住友商事等、総合商社が扱うことができるだけの市場規模であったものが、プラザ合意から始まった急激な円高で、いきなり競争力を失い始めた日本の繊維輸出業界の事情は、一変して、「これからは米国からの日本への輸出だ」と商社の目先が移り出してくれたことが、向かい風のように思えた市場環境が、実は追い風効果であることに気がつきました。
間尺
潮が引くように輸出関連事業が、輸入へのシフトができるのは商社等の中間業社だけでしたので、ほとんど誰もいなくなったハイウェイを一人で歩いているような感覚でした。そこで見えた(感じた)ものは、それまで日本のテキスタイルを扱っていたアパレルさんが行き場を失ったような状況でした。
総合商社にとっては、いわゆる「間尺が合わない」と言う状況に陥り、そこで、テキスタイルの分析、作成がわかり現場状況をリアルタイムでできる小僧のような自分の存在に未来的価値を見出してくださり、三菱商事ニューヨークでの契約スタッフとしての打診をいただけ、それが渡米の直接の機会になりました。
言い換えれば、急激な円高による、輸出不況が起こらなければ、ニューヨークでの船出はもっと先になっていたか、なくなっていたかもしれません。
俯瞰
今、こうして振り返ることで、その当時のダイナミクスを俯瞰的に捉えて、自分の意識とそこに現れる環境の相関性がより一層理解でき、突き進んで来られたことの意味がわかるようになりました。
森信三先生のお言葉、「人間は一生のうちに逢うべき人には必ず逢える。しかも、一瞬早すぎず、一瞬遅すぎない時に。」まさに、その通りだと思います。
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